当社(有)丸信新津商店は、北海道は十勝の池田町にて創業半世紀の老舗リカーショップです。当社の沿革を遡っていくとその成り立ちは開拓時代にまで及びます。十勝池田の歴史を共に歩んできた新津商店のあゆみを皆さまにご紹介いたします。
明治40年ごろの新津牧場
新津家の開拓の祖、新津繁松が故郷である長野県から利別太(現在の池田町)に様々な紆余曲折を経て本格的に開拓に入ったのは明治26年ごろでした。その頃、利別太への入植を明治政府は正式には認めていなかったので、いわゆる「無願開墾」という、無届けでの開拓でした。その後明治29年に長野県に残してきた妻子を呼び寄せるも、寒さによる不作や、無願開墾を理由に明治政府から土地を貸し付けてもらえないなどの骨身を削るような苦労を重ねました。その頃には利別太への入植者は65戸ほどあり、その出身県は宮城、山形、岡山など多岐に渡りました。また福井県からの集団移住者から立ち上げられた「池田牧場」などを筆頭に、酪農や農業を盛んに行い、町として発展させてきたという経緯があります。新津繁松も明治36年ごろ「新津牧場」を下利別(池田町青山・豊田の山林)に開設しており、馬産から畜牛飼育へと切り替えながら、肉用種の増殖に寄与しました。写真は明治40年ごろの下利別の新津牧場の様子です。
新津繁松は慶応元年に長野県の小海村に農家の長男として生まれました。幼少の頃から利発で学を好み、17歳になると隠居した父に代わり大黒柱として家業を営みながら、政治への関心を高め、明治20年、齢23歳の時、私立東京法学院(現在の中央大学)で三年間政治などを学びました。その後帰郷し、政治活動に奔走しますが財力の必要性を痛感し、北海道に於ける拓殖の成功の中で資金を蓄え、その経済力の背景に政界進出を考えるようになりました。その後明治26年に入植し、土地を開いて農業をする傍ら、水害や冷害による凶作の際に家族の糊口をしのぐ目的で、アイヌの人々から仕入れた毛皮を元手に商売を始めたことが新津繁松の池田での商売の始まりでした。明治35年には酒造を手がけましたが、牧場経営や政界進出などで多忙だったことから、この新津商店は実際には繁松の弟、新津亀蔵が切り盛りしていました。のちに繁松から正式に新津商店として店を継承し、明治40年に現在の池田町大通り一丁目に「米穀酒類問屋「二 新津商店」を開業しました。
新津繁松
現在と同じ西1条6丁目に開業した丸信新津商店
新津亀蔵の五人の子供は全員女子であったため、新津商店の後継として、繁松の采配によって長女きくに同郷の長野県から武川信四郎が新津家に婿養子として迎え入れられました。先述した「二 新津商店は明治42年ごろ火事により全焼しており、結婚後信四郎は亀蔵が経営する旅館「池田館」で働きました。信四郎は池田館で働く傍ら、池田町の発展の中で商業経営に着目し、商店経営の資金を蓄えるため、妻きくを伴って陸別原野に農業を目指して入植しました。開業のため二人は爪に火をともす勢いで働き、大正9年ごろ、現在も同じ池田町西1条六丁目に「丸信新津商店」を開業しました。当時は大規模なパルプ工場や製麻工場が操業を始め、こうした工場や従業員社宅への配達を行っていました。酒類・雑貨のほかに石炭た米穀の販売も行っていました。戦中は塩、砂糖、煙草や菓子の配給を広範囲に渡って担当していたこともあり、商売を続けることができました。
参考文献